あらしのよるに
先日、懐かしい映画を観た。「あらしのよるに」というアニメーションなのだが、幼児向けとは思えないほど、とても本質的な感性で描かれている。
あらすじは、こうだ。ある嵐の夜、ヤギのメイが山小屋に避難した。同様に1匹のオオカミ(ガブ)も同じ山小屋に避難してきた。真っ暗な闇の中、2匹は、互いの正体を知らない(勘違いした)まま夜通し語り合い、意気投合する。そして「あらしのよるに」を合い言葉に、翌日再び会う約束をする。
翌日、2匹は互いの意外な正体を知ることになるが、喰う者(オオカミ)と喰われる者(ヤギ)の関係を超えて、2匹は「ひみつのともだち」となる。しかしそれは、互いの種族にとって、決して許すことのできない禁断の友情であった。
やがて2匹の関係は、お互いの集団にバレてしまう。互いの集団では自らの利益のためにメイとガブの友情を利用して、相手方の情報を手に入れてくるように2匹に命令する。メイとガブは、それぞれの集団内での立場よりも、お互いの友情を大切にして2匹で逃げることを決意し、ヤギとオオカミが一緒に暮らすことができる「緑の森」を探すため、目の前に広がる雪山の向こうを目指し旅立つ。その頃、オオカミの群れは自分たちを裏切ったガブを追いかけていた。
ストーリーの落ちは、ここで明かすことは控えよう。
動物の世界、弱肉強食の食物連鎖の中で当然あり得ない話なのだが、何故にこの話が感動を呼んだのかを考察してみた。それは、人間としての自覚、良心にとても強く訴えるメッセージ性を感じるからだと思われる。
思わず笑ってしまうオオカミの食欲を抑えるシーンは、草食のヤギには想像し難いものであろう。それをオオカミは友情という想いの力と理性で越えようとする姿は、人間に置き換えて深く学ぶべきことがある。
この映画を一言で表現するなら「自己犠牲」である。友のために身を捧げようとする姿勢に大きく胸を打たれるのだ。
自己犠牲という言葉を嫌う人もいるようだ。確かに重い言葉ではあるが、人間の体を例にとっても、その構造を支える基本的な仕組みは「自己犠牲」で成り立っていると言っても過言ではない。
白血球の働きだけを見ても、身体に侵入してくる異物に対して果敢に突撃して自爆して相手をやっつける。
心臓は、気付かれることなく鼓動を打ち続けてくれている。人体の細胞すべてが個体を維持するために日々、死闘を繰り広げていることを忘れてはならない。身体そのものだけでも、自分だけのものと考えること自体が、もしかすると誤った捉え方なのかもしれない。
私はどうだろうか?
保身のためだけに生きてはいないだろうか?
「ガブ(オオカミ)のためなら、あなたのためなら僕は食べられてもいいんです。」とメイ(ヤギ)が言った言葉を深く胸に刻んでおこうと思う。