ヨーロッパ滞在回想録vol.1 ~イギリス編~
私は20歳でイギリスのロンドンに渡ったのだが、どうせならもう日本には戻らない決意を持ちたいと、マレーシア航空の激安片道チケットを購入して、名古屋空港発クアラルンプール経由でヒースロー空港に飛んだ。
初日は、とりあえずB&Bという安宿に泊まることにして、早速ロンドンの夜の街を楽しむべく、パブをはしごしたのを覚えている。
独学での日常英会話
当時は、iphoneのような便利なものはなく、地球の歩き方という本くらいしか諸外国の知識を得られるものはなかったものだ。
お金も、現金を持ち歩くのは危ないというのが定説で、トラベラーズチェックという小切手を持ち歩いた時代である。
私の英語レベルは、高校一年生まで赤点だったのだが、ちょっとしたきっかけがあり、奮起してNHKのラジオ英会話講座を毎日20~40分聴き続けた結果、独学だったもののその頃には多少コミュニケーションができるくらいには成長していた。
よく英会話を学びたいという話を耳にするが、私が思うに、高い授業料を支払って英語学校に行くのも否定しないが、まずは基礎を学んだ方が良い。
NHKラジオ講座は、今でもアプリで聴いてみて思うが、かなり実践的に使えるように考えられてつくられているのでお勧めだ。
しかしながら、いざパブに行くと、何の酒をどうやって注文してよいやら全くわからず、とても緊張したものだ。
戸惑いながらも平静を装い、傍らで客が注文する声と店員の対応に耳を傾ける。
客「パイント オブ ラガァ プリーズ」
店員「オーライ トゥパウンド フィフティ」
なになに?プリーズしかわからんぞ。そんな感じだ。(笑) 出てきた飲み物を横目で凝視するとそこには見慣れたビールのようなものが大き目のグラスに。
なるほど、これがラガービールというものか。昔から親父が酒屋に頼んで、キリンのラガービールを瓶でケースごと届けてもらっていたので思い出した。ならば、パイントっちゃなんだ⁈もしかして、あのグラスのことか?グラス オブ ワインみたいな感じか…。
スマホに慣れている若者たちには、おおよそ想像つかないだろうが、全てが手探り状態だった。何せ、耳での聞き取りなのでスペルもわからないため、辞書での調べ方すらわからないという有様だ。
ロンドンでの住まい探し
そんなこんなで、2~3日観光気分で過ごしたのだが、いや待てよ、俺はここで生活せねばならないのに何をしているのだ。ということで、アパート探しを開始した。
とりあえず不動産っぽい店に飛び込んで、紹介してもらったのが移民のマレーシア人夫婦が一階に住む2階の間借り的な部屋だったが、次のステージに進むのに時間もなく、背に腹は替えられなかったため即決した。
そこはロンドン郊外のアーセナルという町で、サッカー選手がイギリスで活躍するなんぞ、当時では有り得ない話だったが、最近では日本のサッカー選手がプレミアリーグで所属したりもしてとても感慨深い。
そこを基点として、次は友人や知人をつくるためにロンドンのど真ん中の英語学校を探した。数ある中で選んだのは、Mayfair School Of English、私学なので金さえ払えばすぐ入校できた。
当時、観光ビザは半年のみだったため、とりあえず学生ということで一年間のビザを取得した。
この学校が懐かしく思えてネットで検索してみたら、休校中とのことだ。おそらくコロナで廃業したのだろう。創業1986年とあるのでかなり老舗の学校だっただろうにとても残念でならない。
便利な公共交通機関
ロンドンは東京と違い、アンダーグラウンド(地下鉄)がとてもシンプルかつ安全で、とても便利だった。もちろん、赤い2階バスも風情があってとても良い。よくドアのない後部から飛び乗って利用したものだ。今はきっと、そんなレトロなバスも減ったことだろう。
当然、ロンドンでの移動手段といえば、黒いタクシーを忘れてはならない。運転手は、弁護士に並ぶほど合格率が低い超難関の資格試験を通過した者だけがなれる。収入もかなり良いらしい。私は貧乏学生だったので、ほとんどこのタクシーにお世話になることはなかった。
治安が良いのか悪いのか
英国は、日本と同様に銃規制が厳しかったため、ロンドンの警察は銃を持たないほど、治安は悪くなかったが、IRA(アイルランド独立闘争の武装組織)による、地下鉄等の爆破活動が頻繁に起こっていたので決して平和ではなかった。
実際、その後にイングランド北部にあるマンチェスターに住んでいた頃に、奇跡的にけが人が出なかったものの、無人トラックに設置された爆弾が爆発して、バイト先の店舗の窓ガラスが衝撃波で吹き飛んだ。
良くも悪くも、刺激的な毎日を過ごしていた。
つづく