時代の変化で淘汰されないために
最近、どこかの高校の顧問が生徒に暴力を振るってニュースになっていた。
昭和の時代は、それが当り前だったと思う人も我々世代、特にそれ以前の諸先輩方には多いかもしれない。
確かに昔、学校ではよくビンタされたり、でかい定規やら武器ともいえるような物で頭にタンコブが出来る程どつかれた記憶がある。
はっきり言っておくが、これは暴力であり教育ではない。それは、前回で述べた「競争」の発想から生じた副産物であり、自己承認のできない教育者が、自らの弱さを認めず、抵抗ができない社会的弱者に責任転嫁している結果に過ぎない。
「今の子達は、○○ができてないけ、いけん…」なんて若い世代に対しての否定的な言葉をよく耳にすることがあると思うのだが、それは決して他人事ではなく、自身を振返っても、そんな思いが湧いて出てきたりすることもあり、反省することが多々ある。
しかし、それはよくよく考えると、時代の流れによって生じる、当然の相違であり、年配者からすれば、言いたいことが出てくることは悪ではない。
当社においても新卒者が多く、Z世代かなにかわからぬが、どんどん新しい風が吹き込んできている。
飲み会で、社員に「まあ、一杯どうだ?」と酒をつごうとしたら、「いえ、結構です」と断られて爆笑したことを思いだした。
他人を批判するということ
私は、できる限りの自由を与えることで、最大限の能力を発揮できるよう努めている。とはいうものの、それを責任者として実行することは容易な事ではない。とてつもない精神力の強さや、社員を信じる力が求められる。
社長という立場は、様々なことに決断を下さなければならないが、何をやっても社員全員に満足してもらえる決断は存在しないので、社員の圧力も感じるし、迷うことも多々ある。
そんな中でも、自己承認して、自分の機嫌は自分でとり、日々、社員全員を認め、褒めることも実践せねばならない。
おそらく、まともにできる人は、そう多くはないのではないだろうか。だからといって、別に共感してもらいたいとか、愚痴を言いたい訳ではない。
それくらい、この人間社会で事を成し遂げることは、自他共に難しいわけで、話を戻すと、ニュースに出た教育者も同じ葛藤を抱える人間であり、周りの期待に応えられるようなレベルの人格者ではないし、「昔はこうだった、ああだった」というような我々も、実は残念ながら同様の人格レベルであり、彼を批判したり、裁く権利はない。
マスメディアに煽られて、あたかも自分だけは正しく、彼らは間違っているという考え方にならぬよう、気を付けるべきだろう。
競争から共存へ
時代は変わったのだ。
歴史は、多くの闘争を繰り広げて来たが、近代社会で大きく変わった。特に1989年の冷戦終結により、価値観は「競争」から「共存」に変化して来ている。
身近なところでいうと、ビジネスそのものも競争を重んじる者が淘汰され、分け与えたり、助けになることができる者しか生き残れない世の中になりつつある。
現代の若者は、決して年配の世代に比べて劣っているのではなく、その社会の変化をYouTubeやらSNSで敏感に察知して対応してきているのだ。
我々が、彼らから学び、変化に対応していけなければ淘汰されるだろう。
私は、当社の若者達の今後に期待してやまない。