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社長ブログ

所詮、自分のことでしょう?

今日は、東京で会議なので北九州空港から羽田空港に着くまでにこれを書き上げるのが目標だ。

先日の経営者勉強会で、「西川さんは、いつ会っても変わりませんね」と言われた。変わらず安定して穏やかですねという、褒め言葉のようだ。

それはとてもありがたいことで、私自身、常に在り方を意識しているので、そのように周りから見えていることはとても大切なことだからだ。

決して経営が上手くいっているとか、悩み事がないからというわけではないことを、彼らはよく知っているからこそ、それが褒め言葉となるわけだ。

彼が続けて、どうしていつもそのようにメンタルを保てるのですか?と聞く。

私の人生は、順風満帆ではなく、決して能天気に生きて来たわけではない。

7歳で母親が出て行き、継母がきて共に暮らした。その後、実母の元に引き取られると、そこには再婚相手がおり、歳の近い連れ子が2人、共に生活することとなった。要するに、親はバランス良く父母2人づつの4人、兄弟は実の姉、血のつながらない2人、腹違い2人で合計5人経験している。

昨今では、このような家族構成は当たり前になってきているので、驚かれはしないと思うが、そういう生活をするとどうなるかというと、良くいうと人に気を配る、悪くいうと自他を客観的に分析するような性格になる。そうしないとやってられないからだ。継父に、何かを頼むときは母を介したり、兄弟喧嘩が起こると簡単に寝たら忘れるってわけにはいかない。

振り返ると、自分が理屈っぽくなったのもその影響は大きいかもしれない。

少なくともいえるのは、私は常に責任転嫁して、自分を守ることしか考えつかない自己承認レベルがかなり低い人間であった。今では誰も信じてくれないが、20代前半から数年は、一寸先は闇状態の自己嫌悪感ピークで、自殺志願者の1人だった。

どん底で決めたこと

それが何故、大したレベルなわけではないにせよ、人様から相変わらず穏やかですねといって頂けるような人間になれたのか。もちろん理由は多くあるが、あえて一つ挙げると、「覚悟」ではないかと思う。

悩みとは不思議なもので、どん底までいって死ぬしかないという心理状態が続くと、そのまま精神崩壊し病気になるか、振り切って立ち上がるしかなくなる。

私の場合は、胃潰瘍になり、あちらこちら神経が痛くなり、不整脈になりギリギリでこのまま崩壊するくらいなら、向き合ってみるしかないかという考えに仕方なく至った。

その時に出会った言葉が、「所詮、全部自分のことでしょう?」だった。

悩みの種は、自分のことばかりで、人を心配したりすることが一切なかった。

大抵の鬱病の根本はここにあるのではないだろうか?頭の中は、自分のことだらけである。「我」というものであり、贅沢な悩みである。どれだけ与えられているかも気がつかない。自分だけで生きてきたかのように、不平不満で御託を並べ、正当化しようと試みる。

全て私の過去の姿である。

そんな自分と向き合い、その醜さに触れてから、客観的にその「我」と対峙することにした。どうしても人間には生存本能があり、わがままになる側面がある。それは理性で制御することはできても、消去することは不可能だということがわかった。

葛藤は自然の摂理で、当たり前に起こることだということである。

であるにもかかわらず、残念ながら人間は、感情で本能のままに生きることは許されていないようだ。

それと向き合うには覚悟がいる。腹が減っている状態で分け与えるには、かなりの食欲抑制力が求められるし、傷つけようとする者を許すことは容易ではなく、かなりの人格レベルが要求される。

しかし悲しいかな、人間は目を背けず、それを真剣に考えないとその辺の動物と同じ、本能で生きているに過ぎない単なる生き物となってしまう。私は猿と同じですと認めているようなものだ。

できることなら、私は猿ではなく人間でありたい。(笑)

私の穏やかさは、その己との闘いから逃げない覚悟を土台として現れた水面上だけの姿であり、水面下は激しくジタバタしている。

これからも悩みや不安が生じたら、それって所詮、自分のことだろう?と「」に挑戦状を叩きつけ、切り抜けていく所存である。

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