少子化問題の捉え方が問題である
日本の心配事の一つである少子化問題について、湧き出て来た感情と想いがある。
そもそも少子化問題とは、一体なんだろうか。
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさすようだ。
では、その少子化によってひき起こる問題とはなにか?
地球上の人口は増加の一途をたどっており、日本でも大都市における人口過密は著しい。これが21世紀に入って減少に転じることは自然な現象であり、むしろ望ましいという見方さえある。
コロナで社会活動が止まり、排気ガスが一気に減少することで地球の大気が一瞬だけ、とても綺麗になったのを思い出した。
視点を変えると問題は自然の摂理で流れている可能性もある。
それを語りだすと、仮定論になり答えのでない話が尽きないためそれ以上は言わない代わりに別の観点を紹介したい。
とある記事でその問題について簡潔に説明しているものを見つけた。以下である。
「今後の日本の人口減少は、年齢間の人口構成の不均衡な拡大を伴って生じることが大きな問題である。出生率の低下は、より若年層に大きく偏った形での勤労世代人口の減少をもたらし、人口全体に占める高齢者比率を引き上げる。このため高齢者の扶養負担が、政府と家庭の双方で高まり、所得水準の低下と税や社会保障負担の増加という「二重の負担」を勤労世代に強いることになる。」
これを読むことで、若年層は何を思うだろうか。
「高齢者がいることで我々の負担が増す。言葉を選ばずに言うなら、早く死んでくれないだろうか」なんて発想を抱く若者もいるかもしない。
これから高齢となっていく我々世代はどう思っているだろうか?
「年金も出るかわからない中、納める意味はあるのか?今の若者たちに期待できるだろうか」
要するにお互いに不安を抱え、視点を他者に向ける。または、政治の責任に転嫁する。
問題の見方が問題
私は、視点そのものに問題があると考える。
その視点とは、「子供は将来の生産活動を支える労働者であり、経済活動の基礎となる労働力供給の減少が我々や未来を危うくする」
というものだ。
切り込んで結論を申し上げたい。
高齢者となっていく我々の労働力は減少するという概念そのものに問題がある。
恐れずはっきり言おう、「我々が死ぬまで働けば問題ない」ということだ。
昭和世代の考え方は、60歳または65歳が定年だと洗脳されている。晩年は、仕事から離れてゆっくり過ごすと決めて、それまでストレスに耐えて頑張る精神だ。
この考え方が私から消えたのは、18歳の時だった。
父の経営していた土木建築会社でアルバイトした時のことだ。結構な労働で、真夏の炎天下、土にまみれて身体を酷使する作業だった。へばってもうやってられない…と思ったのだか、その傍らで70歳を越えた年配者が、手を止めずに作業し続けていた。どうしてそんなに働けるのか?と尋ねたら、「何十年もやってきとるからなぁ、慣れやな」と軽く言ってのけた。
私は、その時に洗脳された。「そうか、人は精神力で労働し続けることができるものなのだ。」
それからは、ずっとその精神で仕事している。
私は今年52歳になるが、全く衰えている暇はない。睡眠は、なるべく短めにするよう努めているし、常に頭の中は忙しい。必要なら現場の重機に乗って働ける。解体業のおじさんに、重機の操縦を教えてくれというと、「仕事を取られるから嫌だ(笑)」と言われる。
少子化対策を若者達が子を産み育てやすい環境をつくろうとすることに反対はしないが、それを強調することで、結婚できない方々や結婚しない、産まないと決めている子達、産みたくても産めない人達がどんな思いになるかを考えているだろうか?
もう責任転嫁するのをやめて、自身が死ぬまで働こうと決意したらいい。
働く場所がない、雇ってもらえないという社会構造を変えるしかない。
低賃金でも働きます、という心意気が大切だ。最低賃金なんてものを設定すると企業は雇えなくなる。それに見合った働きを得られる若い子達の方が効率が良いと考えるようになっている。
私にできることは限られるが、まず私がその心意気で高齢化に臨むつもりだ、一労働者として。
経営者としては、当社での定年制度はあり得ない。
死ぬまで働いてもらうつもりである。(笑)
少子化問題について、まずはここから改革していく所存だ。