天国を舐めてはいけない
本日、会社のご近所でお声をかけて頂いた。
「こんにちは、初めまして。社長のブログを読ませて頂きました。」
大変失礼ではあったが、どなたかわからなかった。
ご婦人はそのまま話を続けられ、
「私も福島先生にお世話になりました。なんか他人事ではなかったので社長とお話がしたくて…。」
お話を詳しく聴くと、ご婦人もかなり前に脳腫瘍を患い、私の娘と同様に神の手で有名な福島先生に執刀して頂いたそうだ。
そもそも、こんな私の好き勝手に書いているブログを読んで下さる方がいることに驚き、また偶然にも同じドクターにお世話になっていたことに再び驚いた。
話を聴くとお知り合いが当社の社員と取引があり、たまたま私のブログを読んだらしい。
世間は本当に狭いものだ。人生で出逢う人間の数については、様々な説があるだろうが以下のような説があるようだ。
- 人生でなんらかの接点を持つ人は、30,000人
- 学校や仕事を通じて近い関係になる人は、3,000人
- 親しい会話ができる人は、300人
- 友達と呼べる人は、30人
- 親友と呼べる人は、3人
いずれにしても、人生で出逢える人の数には当然限りがあり、それを偶然とするのか必然とするのかは自分次第だろう。
私は、そもそも偶然などなく、必然だと思うタイプだ。全ての出逢いや出来事に意味が存在する。いや、捉え方で意味付けしているのかもしれない。
人生最後に残るもの
人生で最後に残るものを考えた時に、当然、物質ではない。お金なんぞ、棺桶に入れても火葬で灰となる。我々は、エジプトのツタンカーメンの時代に生きているわけではないのだから、そんなことは誰でもわかっているはずだ。
では、何が残るのだろうか。私は、「人間関係」だと思っている。別の言い方をすると「コミュニケーション」だ。
人生の終わりに誰かにどう思われるかということが重要だと言いたいわけではない。誰かをどう思って生きて来たかの方が重要で、与えたもの、それも無形のものしか残らないと思っている。
それを「愛」とか呼ぶ人もいるだろうが、私はそんな大それたことではなく、人とのコミュニケーションを楽しめたかどうか。それしか残るものはないと思っている。
もし、あの世があるならば、無いなら無いで構わないが、あるとして、それが悪いことに永遠だとしたならば、運よくそれが天国だったとして、自分は何をして過ごすのだろうか。おそらく、様々な趣味を見つけるために精を出すだろうが、きっと飽きが来るはずだ。10年くらいはもつかもしれないが、1000年は無理だろう。ましてや、永遠は億万年どころの話ではない。
天国を舐めてはいけない。
そもそもこの地球上でそこそこ衣食住で困らない環境にある人間が幸せを感じられないならば、天国では尚更幸せにはなれないと私は思う。天国に辿り着いてから、人が嫌いですというのは永遠の地獄ではないだろうか。
結局は、「何をする?」ではなく「誰とする?」の方が大切であることに気付くことになるだろう。