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社長ブログ

会社で新年の神社参拝をしない理由

当社では、新年の神社参りを控えている。理由は、簡単でそれぞれに信仰や信心があり、行きたくない者も中には必ず一人はいるからである。

しかし、それ以上に個人的な意見になるが、昔から「祈願」というものがあまり好きではない。

あなたが神様だったらどうする?

こんなことを想像してみた。有り得ない話だが、もし自分が神社の神様だったとして、見知らぬ者が突然に年に一度やって来て、小銭を投げつけた上、勝手なわがままな願いを叶えて欲しいと言われて気分が良いものだろうか?

誰かの病が治るようにだとか、ウクライナ情勢が良い方向に向かうようにだとか言われるなら納得せざるを得ないが、大抵は自分の保身や酷い話であり、お金持ちになりたいだとか、宝くじが当選しますようにと、わけのわからない御託を並べている者も少なくないのではないだろうか。

当然ながら、神社参拝を否定する気持ちは一切ない。ただ、もし自分が神様だったとしたら、願いを叶えてあげたいと思うように努めるが、そもそもそんな形で願いが叶ってその者の人生が良くなるものだろうかと考えてしまうだろう。

その人の幸福を願って、逆に乗り越えられそうな試練を与えて、心の成長を願ってしまうのは私だけだろうか。

皆、結局のところ幸せになりたいのであり、金持ちになることや宝くじが当選することが目指している趣旨ではないはずだ。幸せとは、誰かが与えてくれるものでもなく、物質的なものだけの話でもない。己の在り方、捉え方次第でそんなものは一転することを知ることの方がもっと大切だ。

ただほど怖いものはない

「ただほど怖いものはない」の本当の意味は、我々はもう既に色んなものをただで受け取っているということだそうだ。

例えば、身体について、目鼻口耳がただで与えられているから、見るもの嗅ぐもの食べるもの聴くことを楽しめる。耳と鼻が無ければ、メガネがずれ落ちる、なんて話ではない。(笑) 心臓もほとんど気が付かれないのに、勝手に動いてくれている。空気だってお金を払っているわけでもなく、雨だってただで降ってくれる。

人間にとって生きる上でもっとも根本的なものは、基本、ただで与えられている。にもかかわらず、自分も含め、人間とはどこまでも貪欲で感謝が足りない。神社参拝するなら、感謝を伝えに行くのが妥当な理由で、「もっとくれもっとくれ」は、そろそろ人類が卒業すべきことなのではなかろうか。

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