幸福のメカニズム
前回の「今、このままで幸せである」では、現状を何も変化させることなく、考え方や捉え方だけを変えることで幸せになる方法について書いた。
自分をよく観察した結果、幸福のメカニズムはこんな流れになっている。
刺激→反応→思考の選択→幸福or不幸
刺激というのは、自分にふりかかる外的要因の事を意味する。
例えば、マイナスと思われる事柄でいうと事故や病気、他人からの暴言である。
次に反応がやってくる。刺激の後、衝動的に自分の中に生ずる思いや感情である。
上司や友人に、許容できないことを言われて傷ついた、などがそれである。
その反応の次に、思考の選択がやってくる。相手の言動をどう受けとめるのかという思考の選択が、幸福か不幸かの分岐点となる。
そこに理性というチカラで、感情をコントロールすることが必要となるわけだ。
こんな話を聴いたことがある。
あるカフェで、とある中年女性が店員に対してクレームをつけていた。
「もう30分経つのに注文したものが出てこない。こんなことはあり得ない!何を考えているの!責任者を出して!」
側から見ていてもわかるくらい怒りを露わにしていたのでアルバイトと思われる若い店員も困っている様子だった。
この時、前に述べたような刺激、反応、思考の選択が行われている。
気持ちの転換
この中年女性の態度を客観的に考察してみることで、選択は人によって大きく分かれるということがよくわかる。
腹ペコだという刺激から来る苛立ちを抑えて、遅い理由を確認し、たとえ忘れられていたとしても赦すという器の大きい人もいるだろう。
そんな人はこう考えるかもしれない。
この暑い中、エアコンの効いた店内に長くいられてラッキーだった。
または、仮に貴重なランチタイムで、もう食事が取れない程急いでいたとしたら、今日はダイエットの日か〜、と日頃できない自制の時を過ごすことができたと考えるかもしれない。
中年女性のようにクレームを行ったとしても、実は事実そのものは何も変わらない。ただ遅れて注文したものが出てくるだけである。その先は、気持ちが満たされることなく1日を過ごすことが容易に想像できる。
相手の心は支配できない
人によっては、謝罪を要求する者もいるようだ。謝罪を要求するのは自由だが、もし相手が昔の職人堅気のおっちゃんで強気で開き直られ怒鳴られたら、逆に傷つくのは自分の方だと知るベきだろう。
要するに、相手の感情まで支配はできないという法則があるということを知るべきである。
相手の態度を改めさせる、または理解することを強要する自分の態度こそ、改めるべきことなのである。
では、受け止める側はどうなのだろうか?
もしかしたら強い言葉で物申されることで、アルバイト店員は、ショックを隠せず泣き出す者さえいると思われる。
果たして一方的に、このクレーマーが悪だと言えるのだろうか?
実は、受け止める側にも刺激と反応、そしてその考え方が問われる。
中には暴言を吐かれたとしても、逆に感情が高ぶって言い返す者もいるだろうし、自己防衛しようと暴力に走る者もいる。
少なくとも言えるのは、それは強さでも何でもない。
感情よりも目的と目標に集中する
本当に強い人間は、湧いてくる怒りや悲しみの感情に左右されないで、事実は何かをその場で冷静に分析できる者である。
その中年女性に対して、そんなに腹が減っていたんだなと理解し、期待されていたことに感謝し、早く料理を提供するのが第一にやるべきことである。
謝罪をしている場合ではない。(笑)
その時点で、両者ともに本来の目的を見失っている。
感情を取り払ってしまえば、中年女性は、早く食べたい!店主は、早く提供する!ことがお互いの目的と目標なのである。
事実は、とてもシンプルだ。それなのに、感情で物事の事実を見失い判断を誤る。
中年女性は、謝罪を求めるよりも、そこを笑顔で立ち去り、早く時間内に食事を済ませて、もうその店に行かないようにしたら良いし、店員は謝る必要もなく、一人お客様を失った事実に向き合ったら良い。
それが出来ないというならば、一生、刺激が来るたびにただ反応し、人を赦さずに闘う生涯を送ることになる。
人を赦すことは簡単ではない。だからと言って諦める理由にはならない。
全てをありのままの状態を許容するということは、今、幸せであるために必要な原則の一つなので、残念ながら誰一人として逃れる道はない。
そこにはとてつもない人格が求められるだろう。
次回は、実際にどのようにしてこの不可能と思われる障壁を越えて行くのか?について言及することにチャレンジしたい。