成功という名の落とし穴
人間の欲望には限りがない。
これは自然の摂理で、本能がそうなっているようだ。それは、ご飯を一杯食べた後にまたもう一杯食べたくなるような自然なものだ。しかし、それによって満足感を得るためのハードルもどんどん高くなっていることに気付く。
ご飯の話は、例え話に過ぎないが、生活全体を気をつけて見てみると同じ現象が起きてはいないだろうか?
ご飯一杯で満たされず、もっと満たされることを願って次の成果を求めてしまい、もう一杯に手をつけてしまう。
先日、とあるカフェに入ったら花屋と併設されていたため、とても清々しい自然な香りと空気に包まれていた。
面白いのは、珈琲が出てくる頃にはもう鼻が慣れてしまい、いくら空気を吸い込んでも最初に感じた感覚は戻らなかった。
人間の五感や感受性は、そのようにできているのだとつくづく思った。
成功の罠
子育てにせよ、仕事にせよ、何らかの成果を求め目標設定し、成し遂げると次にまた更に上の成果を求める。それで成果を上げられても、求めていた達成感は、一瞬で消え去り、次の目標達成ができるか不安になる。
これは人間が陥りやすい成功の罠と言っても過言ではなく、成功と幸福はイコールではなく、全く別物であるということを知らねばならない。
私が考える原理原則からすると単純に、感度を高めることが、成功の罠に、はまらない方法であり、答えだと思われる。
感度とは何のことだろうか?
その一杯のご飯だけで満足することができるようになる感性のことである。
もし体感されたいなら、実際のご飯で試すことができる。例えば、たった1日の断食をしたら米一粒の味に差異が生じる事実を誰しも感じることができる。
願望と恐怖は表裏一体
物事を成し遂げたいと思った時に、成し遂げられない時の感覚やイメージも同時にやってくる。
常に願望と恐怖は表裏一体なのだ。
結局、そのイメージが強い人ほど不安は大きくなり、それを常時抱えて生活するようになる。
それらのプレッシャーから解放されるには、成し遂げた時の結果そのもの、すなわち一杯のご飯に満足できる感度を高めておく必要があるということだ。
何ならそのご飯が日本米でなく、タイ米でも同等に美味しく食せる感度を高めたら良いということになる。
コシヒカリ、ササニシキ、有名ブランド米を次から次に食すには、お金を更に稼ぐ必要性が出てきて、それを食べる時間や労力も更に要することとなる。その結果、太り健康を害することになる。如何に無駄なことをしているかがわかる。
欲求を満たすため、成果を求め続けることで得たい結果は幸福感であるはずなのに、そこに至ることができないという矛盾とその理由がその罠にあるわけだ。
死を受け容れる
自分ではどうしようもない重篤な病気を患った時、ついてないな、やはり運が悪いな、と考えてしまうのだが、それは健康でありたいという気持ちが強く、究極は死にたくないという願望が恐怖という感情を生み出す。
いっそのこと、これも意味があるのだろうな、定めの時がやってきて死ぬのかな?まあ、それも良かろうと受け容れることができると、生きるということに対しての感情もまた変わるらしい。
そもそも、究極な考え方かもしれないが、健康であることが正解であると位置付けるから、それを失うことへの恐怖感がやってくるのだから、健康や生きることへの執着を捨て去れば、やはり心は穏やかになりそうな気がするのは私だけではないはずだ。
おそらくその状態で世間一般的な成功をおさめたら幸福感は大いに増すのではないかと思う。成功するから幸せ、ではないということだ。
欲求、欲望を小さなできごとや物事で満足させることができるよう感度を高めることに精を出し、結果や成果に振り回されない人生を送りたいものだ。
生死も含め、少なくともちっぽけな私の短い人生に起こる全てのできごとは、学びに過ぎないなのだから、大げさに考えないよう努めたい。