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社長ブログ

ランチタイムの講演会は短めに!

営業社員とランチしていた時のことだが、彼から言われたことがとても印象的だった。

「西川さんは、自分自身のことを話す時にあたかも他人であるかのように言いますね。面白いです。」

彼との会話の中で、私が自身について語った時に、

「この人(自身)は、そういう人みたいだよ。」

という表現をしたところ、彼がそのようなことを言っていた。

確かに、そういう表現をする人は少ないと思う。もしかすると私の人生経験から来る一面なのかもしれないが、今のところは、それが生き方を楽にするプラス要因とはなっている。

私はそのように指摘されて自分自身を俯瞰してみる気になった。

怒気をコントロールできない理由

私が大切にしている考え方の一つに「客観性」というものがある。人は、大抵自分のことを考えているが、客観的にどんな人間であるかをほとんど理解できていない。場合によっては、常に感情に左右されて右往左往していることが多い。自分の喜怒哀楽、特に怒りをコントロールできずに他人に八つ当たりすることもしばしば起こり、大きなものを失うことも少なくない。人間はまた、そのような怒りの感情をぶつけられることを恐れがちで、相手が怒らぬように本心でもないことを口にしたり、愛想良く振舞ったりする。本心では、自分の正義から来る、間違っていないという感情があるにも関らず。

このような、人間が苦手とする感情のコントロールと、私も当然ながら対峙して来ている。その中で、私なりに培ってきたことが「客観性」というもの。それは、他人に対してではなく、自分自身の感情や考え方に目を向けることである。

相手という鏡に投影される自分の姿

ちょっと高いところに自分を置くと見えてくることがある。

自分の感情が乱れた時に少し試してみて欲しい。何が自分の心を乱しているのか?を冷静に見つめてみる。最初は、誰かに矛先を向けていることに気が付く。しかし、少し深呼吸をしてもっと深いところを覗き込むと、それは自分自身の姿だったりする。自分の嫌なところが鏡のように投影されていたりするのだ。

先日、社員が同業者に電話することをためらっていた。私からするとその内容は、電話でストレートに伝えて5秒で終わる内容だったが、彼はそれを実行することに時間がかかった。

そこで、彼の心理に何が起こっていたのかを知りたくで質問を繰り返した結果、答えはとてもシンプルだった。

「自分が、そうされたら気分が良くない。」だった。要するに、自分が相手からされても平気であれば、嫌な気持ちは想像にも及ばず5秒で終わる訳だ。このような、自分の中の好き嫌いや正論は、相手もこうであるに違いないという発想に至る。なので、それが相手に鏡のように投影される訳だ。これらを乗り越える方法もとてもシンプルだ。

「自分がされても平気だ」という自分になるだけだ。

小手先の話ではない、実際に「なる」ことは容易でないことは私も承知だ。しかし、これがこの地球上で生きる上で、考慮せざるを得ない法則であることは無視できないのだ。

ならば向き合うしかない。自分の考え方を転換させるしかない。

私は、それの繰り返しがとても重要であると考えている。そのような考え方が、おそらく自分自身までも「他人」であるかのような表現に至らしめたのだと私は思う。

身体は所詮借り物

社員が求めていたわけではないだろうが、私が何を考えて生きているのかを伝える良い機会だと思い、自分を客観視することについて、どう説明したら良いのか?を考えてみた。

よく映画やらに出てくる、男女の心が入れ替わる話がある。当然起こり得ないフィクションなのだが、もしそれが起こったとしたら、あなたはどこにいる?どちらがあなた?と聞かれれば、誰しも心の方が自分だと答えるだろう。要するに身体は、あなたという存在の意味としては、心ほど重要ではないということだ。そんなのフィクションの話だろうと思うのならば、少しイメージを膨らませてみてほしい。

もし不幸なことに火事に遭遇して、全身大やけどを負い、ほとんどあなたかどうか見分けがつかない状態で命辛々生き延びてしまったとしよう。衝撃的であることは間違いない。残りの人生の絶望感は半端ない。しかし人間は、いつもこういう衝撃で事実やもっと重要なことを見失う。

私がここで言及したいことは、そこではなく見分けがつかなくなるような身体そのものが、単純に「私」ではないということだ。そこには、もっとあなたを人間たらしめる、心だとか魂だとか、呼び名はそれぞれだろうが目に見えない世界の「自覚」というものがある。

やっとここにきて、考えてみて欲しいのが、「客観性」である。身体は所詮、借り物に過ぎない。例えるならば、ヤドカリみたいなもので、心の宿に過ぎない。たまたま五感というもので直結していて、心の指示通りに動いてくれる物体である。あまりにそれが精巧過ぎるため、この身体と五感そのものが自分自身だと思いこんでしまうわけだ。

この感覚、身体と心を分離させて見つめてみる、感じてみることから始めると本来の自覚ということに気が付く。

誰もあなたの心を傷つけられな

次の段階がもっと大切で、その心の中で渦巻く感情すらも俯瞰できるようになる。ざわめいてもつれた感情を紐解いていくことすら可能になるというわけだ。

心もまた、客観視することで「私はこんな性格だから…」「誰かのせいで傷ついた」という感情すら是正することができるようになる。

私の性格と思われることそのものを変えることもできるし、「私の心は誰も傷つけることはできない」と言えるようになる。

こんな話を、直方店近くのインドカレー屋さんでとうとうと話される社員は、きっと食べた気がしないだろう、と思うのだが、おかわり自由のナンを注文していたところを見ると、あまり心に響いてないようで、ある意味安心した。(笑)

必ずしも深く考えることが正しい訳ではなく、純粋に今を幸せだと思えることがもっと崇高な考え方だと思っている。

彼にも話したが、

「この人(私自身)は、単に考えることが好きな人で、頭の中でパズルのゲームをしているに過ぎない。テトリスのように、流れ落ちて来るブロックを組み合わせて、完成すると消えていく爽快感を楽しんでいるのだろう。」

と客観的に分析している。

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