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社長ブログ

隣の芝生は青くない

先日、ふと思ったことがある。

スポーツにしても芸能にしても、ほとんどが競って誰かに勝つことで、自分のステータスが上がるような仕組みの中に、当たり前であるかのように生きている。

私は、これに違和感を覚える。

わかりやすいのは、個人スポーツで金メダルを目指す世界観だ。

100m走で周りに勝つにはかなりの先天的能力が求められる。地区大会くらいならば、努力で何とかなるかもしれないが日本一あたりの金メダルは天才しか取れない。

それなのに、少しでも上を目指して人生を賭けている人は少なくない。

私も高校生時代は、競輪選手を目指して、プロになってあわよくばトップクラスで有名になって稼ぐなんて淡い夢を見たものだ。

しかし、そもそも公平な競争が成り立つのは、同条件であることが必須要件であり、人間が身体的に公平な状態にあるためには、クローン人間しかあり得ない。

ということは、我々が日々努力で何とかなると考える精神論自体が意味をなさない。それなのにこの社会では競うこと、勝つことに意義を求めてしまう傾向が強い。

無意味な競争

おそらくその理由は、自己承認欲求というものに起因する。競って勝つことで、自信を得ようと試みたり、存在意義を確かめたりするのである。

残念ながら人間は、生まれた時から身体的にはもちろん、頭の出来まで公平にできてはいない。競争することでの勝ち負けは、ある特定の分野においては争う前から決まっているということを認めざるを得ない。

だからと言って悲観することはない。幸いなことに、人間にはそれぞれ「個性」という生まれながらの強みがあり、身体能力や知能で劣っていたとしても、人としてのトータルバランスで見ると、「価値」にそれほど大差はない。

価値に対する定義については、とても難しい議題ではあるが、少なくとも「肉体」ではなく「心」の問題であり、すなわち考え方と捉え方で、自分の価値は自分で決めることができるということを忘れてはいけない。

私は、アホなのか、こう考えると俄然やる気が出てくる。なんでもやればできるのでは?という感じになる。

この瞬間、良くも悪くも他人様は私の中に存在していない。比較や競争、他人からの賞賛などの意識はなく、全て自分の中の目的観を軸に考える。

この考える力や創造力だけは、人間なら漏れなく、生まれた時から公平に付与されたものではないだろうか。

その「選択する能力」こそが、個々の価値や幸福度を左右する普遍的な自分だけの宝であり、未知への扉を開ける鍵となる。

競うなら、土俵を選ぶ

人は、幸せになるためにもがいている。

「隣の芝生は青い」ということわざがあるが、周りを見て、成功者や自分より幸せそうに見える人を羨む時、果たして周りは本当に自分より幸福だと言えるだろうか。

成功を掴んでいるように見えた芸能人や著名人が自ら命を断つのは何故だろうか。

こんなに科学と文明が発展したのに、最も重要な幸福度数を計る機械は存在していない。

本質を見抜けたら、意外と隣の芝は青くはなかった、ということを知るだろう。

もし競いたいのならば、相手ではなく土俵を選ぶことをお勧めする。

本当の意味での幸福度を競う土俵を選択するというのはどうだろうか。「俺とお前、どちらが幸せか決着をつけよう」というのも面白い。

もちろんそこに軍配はないし、誰の賞賛もないのだが。(笑)

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