終わりなき闘い
最近、指摘されてちょっと心が揺さぶられたことがある。
私の口癖が、「いや、そうではなくて…」らしい。
確かに、そう言われてみれば思い当たる節がある。
それは何を意味するかというと、相手の話の腰を折っているということである。
それだけならまだ良いのだが、必ず何らかの理屈を捲し立てて、相手の言葉を、否定までいかないにしても肯定することなく次の言葉が出ないところまで論理立てたり、成り立っていない場合は言い切って終わる。
自分にはあまり自覚がなかったため、その指摘に驚きを感じた。
しかし、真摯に受け止める必要性も同時に感じたので、自分に向き合って分析してみることにした。
その結果、それは心理的な防衛反応であることを知ることになった。
間髪入れずに反応することには、必ず理由があり、私の場合は複雑で、相手にあることの同意を求めているかのように投げかけておいて、それが自身の愚痴やネガティブな内容であった場合、相手の同調を引き出す結果となった時に自分の問題点と向き合うはめになり気分が悪く、相手の良かれと思って返してくれる言葉を遮ってしまうのである。
それは近しい関係ほど色濃く出てしまう。中堅社員からもよく、周りを褒めてあげたらよいのに、という言葉を耳にするわけだ。
相手の言葉への過剰反応は、必ずしも相手へのネガティブな想いや感情ではなく自分の鏡として現れるものに対してもあり得るということを知った瞬間であった。
相手への不快感や嫌う感情より少しましではあるが、こりゃ相手が困るだろうなと改善を試みる決意をした次第である。
正論は、面白くない
明石屋さんまさんの言葉を思い出した。
「相手の話に正論で返すと会話が終わってしまう。そんなん、なんもおもろない。」
私の場合は、正論でもなく、単に自己の問題と向き合うことを恐れる防衛反応で会話を終わらせているに過ぎない。
このようなレベルでは、私の身近にいる人達はきっと不幸だろうと悟ったわけである。
とりあえず、自己嫌悪からは何も生まれないのでそんな自分を許し、承認し改善を図ろうと思う。
7つの習慣の第一の習慣の中に出てくる内容の一つに、「刺激と反応の間にはスペースがある」というものがある。
私のを例にとると、相手からの助言が刺激となり反応する。その間にはスペースがありそれが狭いために、間髪入れずに反応して、相手の言葉を遮るのである。
ここで、自分に必要だったことは何だろうか?
「ふむふむ、なるほど」の時間である。
相手の話を最後まで聴き取り、相手は自分を攻撃しているのではなく、自分のそれと向き合う時間を設けるべきだった。
そのスペースを狭くするのも広くするのも全て自分の選択であるが、少なくとも私にその選択する力があるということを知るべきだろう。
世の中の大抵の喧嘩原因は、そこに起因する。刺激に対する過剰な反応であり、スペースを設け損ねるのである。
昨日失敗したかもしれないが、今日からまた、少しbetterを目指して仕切り直していくしかない。終わりなき闘いは続くのだ。