羽田空港上空で緊急アラート
東京出張で羽田空港に着陸寸前に大きな揺れが起こり、再度スロットルを上げて搭乗していた飛行機が急浮上した。
機長から機内アナウンスが入り、強風によりコックピット内でアラートが鳴ったため、再度旋回して着陸を試みるとのこと。
今年、正月早々に起こった接触事故が頭をよぎる。空の上でイレギュラーが起きると、流石に他人事とは思えず、正直、久々に恐怖を感じた。
死の恐怖感から得るもの
私の考え方の一つに、幸せを感じる力を磨くには常に死を意識すること、があるのだが、現実が迫って来ると想像力を働かせるほど恐怖感が増してくる。私の場合は死後の恐怖というより、衝撃により木っ端微塵になる恐れなのだが。
しかし、その恐怖感があるほど、それが起こらなかったことに対する有り難さがやってくる。
無事に着陸した時には、心の中で機長良くやったと褒めたものだ。
普通に生きていられることがどれほど感謝に値するかは人それぞれの感度によるだろう。
単に良かった〜で終わるのも有り、私のように想いを馳せるのも有り、何が正しいというわけでもない。
幸感力について再考
感謝を感じる心の感度について言及してみたい。
前日、テレビ番組で「いくら」が店頭に並ぶまでの工程について取材していた。
「いくら」はもともと卵巣膜に包まれた状態のものから潰れないように卵をバラバラに取り出したものなのだが、ここに物凄く手が掛かっていた。
要するに、いくらは美味で価値があるのは当然ながら、その人件費が高いわけだ。
値段だけの話なら、お金がある人からしたら毎日でも買って海鮮丼を食べてるよって方もいるかもしれないが、それよりそこに手作業でパートさんらしきおばちゃん達がベルトコンベアで流れてくる「いくら」に付着した余計なものを、ずっと立ったままで小まめに取り除く作業が何工程も見受けられた。
自分だったら1時間で根をあげるだろう。そう考えたら、この方々がいるおかげで、スーパーなりお寿司屋さんに行くだけで手に入れることができることがどれ程有り難いことか、ということなのだ。
誰一人として、人間は一人で生きているわけではない。お金を払えば手に入るのは事実だが、全ての物に何百人という人の手が加わって、運んでくれて手に入れることができている、ということを感じて生きているだろうか。
今、この社会においては、お金さえあれば容易にある程度の物が手に入るため、そこに対しての感性、感度が鈍くなっているように思える。
退化していると言っても過言ではないのかもしれない。
幸せになるために稼ぐことを否定するつもりはないが、そこのバランスこそが幸福度を高めてくれるのでないだろうか。
というわけで、飛行機が落ちないことを願いつつ北九州へ帰ろうと思う。