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社長ブログ

視点を変えて、本質を紐解く

クラクションの音が国道で鳴り響いていた。右折するためにウインカーを出して道を塞いでいた軽自動車に向かって、後続車が嫌がらせのごとくその距離を詰めていた。

これは誰しも当事者になりうる場面だと思うのだが、昨今では煽り運転などからトラブルに発展し、大きな事故に巻き込まれたりしたことが全国ネットで報道されたりして、あまり心地よい話ではないはずだ。

それを横目に通り過ぎた私が一瞬考えたことは、あそこまでクラクションを長く鳴らして威嚇しなくても良いのでは?というものだった。

物事の見方を少し変えてみる

顔までは見ていないため、想像からして40〜60代の男性、おそらく余程短気で威勢だけはよい。なんて、思考を巡らせていた時に、ふと別の視点から見てみようと考えた。

その後続車の短期なおっさんと思っていた人がもし、急に産気付いた妻を急いで産婦人科に連れて行こうとしている若い男性だったら?

または、小学生の我が子が事故に遭い、病院に運ばれて意識不明の危篤状態だったとしたら?

それとも、いつも穏やかな大親友だったら?おい、お前かよ!みたいな。

または、急にお腹が痛くなって、うんこを漏らしそうになり、早くコンビニのトイレに駆け込みたい一心であったとしたら?(笑)

事実は一つ、解釈は無数ある

視点を変えるだけで、自身の想像や妄想は一瞬にして一転する。

それによって相手への見方や反応が変わってくる。こういった思考になるには、意識をしないとかなり難しいもので、最初に私が感じたような反応的な感情の枠の中から出ることは、日常的な生活をしている状態では、ほぼ難しいと思われる。

人間という生き物は、どこまでも不完全である。どれだけ考えぬいても、足掻いても、完全無欠の領域には辿り着けない。だから考えること、答えを見つけ出すことを諦めてしまいがちになる。

先程挙げたクラクションの話でいうならば、もし苛立ったおっさんが事実だった場合、それは相手の立場に立つことを諦めた結果だろう。

思考は、というと「自分さえ良ければ良い」わけだ。

しかし、もし前方にいた運転手が同レベルで反応してきた場合は事件が起こる。当然、当人はそこまで想像することも出来ない。

一瞬の怒りで衝動に駆られて後悔するような行動をとり、人生を棒に振ることも少なくないだろう。

考えることを停止して、成長することを諦めることで、自身の中の矛盾した葛藤は更に大きくなり、外部に向けられるようになる。

私は、自身があたかも人格者であるかのように語っている勘違い野郎だと誤解されやすいのだが、それは意外と間違いで、当然、自分が不完全な人間であることを認めている。

だからこそ考えること、答えを見つけることを諦めるわけにはいかない。

日々の生活の中で常に視点を変えることを意識して、本来の理想としている自分の姿を形成していく。

あれ?いつの間にか、またいつものごとく決意表明になってしまったかな?

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